どうもたけうちです。
毎度毎度演劇って楽しいよねっていう記事を書いておりますが、懲りずに今回も書きます。
今回のテーマは、「演劇と自己肯定感」です。
私自身、自己肯定感を0~100で表現するとすれば、過去は10~20くらいだったのですが、1年ほど演劇をやってみてそれが40~50くらいまでには上がってきた実感があります。
自己肯定感が低いと、生きづらいことの方が多いと思うのですよ。ちょっとした失敗を責め過ぎたり、こうしなければ!!みたいな縛りを勝手に作ってできてない自分と比較したり。辛いし、不毛オブ不毛です、そんな時間は。誰得。しんどいやん。
それが演劇によって和らいだと言うのはとってもとっても良いことなのでは?と言うことで綴っていきます。
自己肯定感とは
自己肯定感=自分自身の良しも悪しも全てひっくるめてOKを出す力
自己肯定感の定義が曖昧なままな議論が進む記事も散見されますので、ここでちゃんと定義しておきましょう。
自己肯定感とは、『自分自身の良しも悪しも全てひっくるめてOKを出す力』のこと。できた自分を褒める能力だと誤解されがちですが、違います。自分のできてないと思う部分や失敗さえも、「そんな自分でも良いのだ」と思える力を自己肯定感と言います。(あくまでもこの記事での私なりの定義です)
自己肯定感があることで、失敗を恐れずにチャレンジができたり、困難に直面しても落ち込み過ぎずに乗り越えようとする事ができます。また、そういった前向きな力だけでなく、気分が落ちていたり、恐れを抱いていたりしている時でも、そんな自分に気づいてあげてケアしてあげる。どんな時でも自分を責め過ぎずに落ち着いていられます。
友人がこの状態を「機嫌が良い」「ゴキゲン」という風に言っていて、とても良い表現だと思いました。ジャッジせずに気づいてケアする、そんな姿勢を保っていきたいものです。演劇のワークショップを通してそれに気づいたプロセスについて綴った記事はこちらから。
日本人の多くは自己肯定感が低い
それはさておき、日本人の多くは、自己肯定感が低いと言われます。
欧米諸国と日本の17〜19歳の若者の自己肯定感の調査では、「自分自身に満足している」という質問に肯定的に答えたのは日本が最も低かったようです。非常にざっくりした数字で恐縮ですが、欧米諸国は回答者の8割以上が満足しているのに対し、日本人はその半分以下。
自己肯定感の高い低いは、文化や育ってきた環境がかなり大きく影響するのでしょう。謙虚が行き過ぎて、他人の前で子供を否定する親とかね。私も幼少期から、親にかなり否定されてきた人間なのもあり、自己肯定感はあまり高くありません。できている自分さえも肯定できず、承認欲求の塊みたいな時期もありました。
親が悪いというよりは、親も自己肯定感が低いのだから、無意識に自分にも他人にも責めがちなのは致し方が無いことです。文化というか、呪いというか、避けられなかった縛りとして捉えるのが良いのだと思います。
しかしご安心ください。自己肯定感が家庭環境や生育環境に影響を受けるということは、先天的なものでは無いということ。つまり、後天的にも育てられるものです。
この後、「自己肯定感と演劇」を繋げて、お伝えしていこうと思いますが、関西で心理カウンセリング付きの話し方教室に行っていたときに学んだ、自己肯定感を上げるワークの記事も併せてご覧下さい。
自己肯定感を上げるには演劇をするのがよろしいのでは?
世の中、結局は自己肯定感
台本演劇や即興演劇のワークショップの帰り道で、他の受講者さんとご一緒する時があります。
いつも気になって聞くのが、「Youは何しにワークショップへ?」です。その中でも多いのが「コミュニケーションが苦手で克服をしたい」というもの。「会話が続かない・噛み合わない」「話しかけられない」「怖い」など、コミュニケーションを課題に感じる人はたくさんいるんだなと思いました。というか、自分もその課題あるから共感の嵐。
人は話し方が9割、聞き方が9割など、コミュニケーションのスキルについて教えてくれるコンテンツは世の中に数多ありますが、私の持論として、「コミュニケーションは結局マインド」ということです。
要は自己肯定感です。成功も失敗も大丈夫だという心構え。
身も蓋もない話ですが、いくら技術を持っていてもそれを発揮しようとする土台がなければ意味がありません。大きな声を出せるという技術を持っていても、人前では萎縮してしまうマインドでは発揮できませんよね。
コミュニケーションでも、「相手の目を見る」とか「相手の名前を呼ぶ」とか「とにかく褒める」とかスキルはたくさんありますが、その効果の大きさが分かっていたとしても怖くてできないみたいなの結構あると思うのです。
それでも「わかる」から「できる」にするには、実際にやってみることが必要です。でも怖いからできない。そしてできない自分を責める、ああ、悪循環。
じゃあもうどうすれば良いのか、と頭を抱えた人に対する救いの手が演劇の稽古場です。(これはもちろん、ワークショップや稽古場の場作りという論点がありますが、前提「稽古場は安心安全な場所」として書き進めます)
試して試して試すうちに自己肯定感が育つ
コミュニケーションに限らずですが、何か物事を上達させるためのトレーニングには、試してみて大丈夫な場、いわば心理的安全性が保たれている場でたくさん試す必要があります。
稽古場は最適です。
*余談ですが、私は、チャレンジ・挑戦よりも、試す・トライする・実験するという表現の仕方が好きです。
やってみることで、いろんな結果が得られます。
そしてその結果に対して「成功・失敗」はありません。
というのも、「「こうやったら面白いんじゃね?」という仮説を立てる→やってみる→結果が得られる」という試すプロセスがある中で、その結果に対して、「仮説と合っていた・違っていた」はありますが、「そういう結果だった」で終わります。
もちろんそこに「このストーリーには合わないね、もっとこうすると良いのかもしれない」とか「演出的にぴったりなのかもね」という判断をつけることはありますが、この「この結果は絶対にだめ」とかいう評価は無いと思っています。
そうやって、試す、結果が出る、次こうしてみようを繰り返すうちに、スキルが上達するだけでなく、「ああ、何をやっても大丈夫なんだ」というマインドが育っていきます。
台本芝居をやっていて気づいたこと
同じ内容ですが異なる観点で。
台本演劇をやっていて最近気づいた事があります。俳優として芝居をする上で、ステップがあるなーと思いまして、それがこちら。
「自由に発想する→実際やってみて引き出しを増やす→ストーリー・役・演出に合うものを選ぶ」
本記事のテーマの中で重要なところは、「自由に発想する」という部分でしょう。「発想する」の中でも、「インプットする→抽出する→自分の知識や経験と繋げてみる」というステップがあるなあと思うところですが、一旦今は「自由」にフォーカスします。
ここで「自由」を、これもマインド論ですが、「良い/悪いのジャッジをしない範囲の広さ」だと定義します。円のイメージです。
とすると、自分の中で「自由」の枠組みが狭い場合、発想も狭くなると思いません?
私もこれがね、中々演劇始めた当初は、自由の範囲が狭過ぎて、もはやアイデアが浮かんでいること自体気づかないレベルでした。発想自体は合っても、それが押しつぶされてしまっているんですよね。
即興劇の中で、発想したアイデアを精査しようとするを脳内ジャッジを「頭の中の検閲官」なんて言ったりしますが、鬼の検閲官を恐れ過ぎて、もはや検閲にもいかないアイデアちゃんたち。
とは言え、アイデアちゃんたちも、外に出ていかないと、次のアイデアちゃんが生まれません。便秘です。
とすると、自由の円を広げるには、アウトプットが必要と言えます。
で、あるからして「心理的安全性が保たれた場所で、アイデアをアウトプットしていく」これが自由の円を広げる方法と言えましょう。はい、パワープレイです。やりながら広げるしかない。
これを行動認知療法なんて言ったりしますが、「心の筋トレ」といえば捉えやすいでしょうか。筋トレも、自分に合った負荷をかけながら筋肉を育て、育ってきたら負荷を徐々に上げていきますよね。それと同じ。心理的安全性が保ってくれる講師のファシリテーションは、筋トレで言うところの正しいフォームでしょうか。(…この例え、合ってんのか?わかりやすいのか??)
体感として、即興劇のワークショップは特に「自由」にフォーカスが当たったワークが多い気がしますね。
浮かんだことを否定しないマインド、そしてそれをアウトプットして良いという許し。安全な場所でのアウトプットを繰り返していくうちに、本当に徐々に徐々にブロックが外れ、しなやかなマインドが育っていきます。
そうすると、突飛だと思っていたアイデアも楽しんで試してみることができるようになります。そして、自分の自由の円が広くなっていくと、他人のアイデアもジャッジすることが減ります。
自由の円は、自己肯定感の高さとイコールです。
「他人に優しくする前に自分に優しくしろ」と言ったりしますがまさにその通りで、自己肯定が他者肯定を生むのです。シャンパンタワーの頂点が満たされていないと、他のグラスに注がれないのと同じ。満たされて溢れ出るから他人に優しくできるのです。演劇して、優しくなりましょう。
まとめ
まとめると、
みんな演劇やろ。
以上です、では。

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