【消費社会とアート】”『観る』を問う”創作撮影展示公演『彩々』(織々) 鑑賞の感想

アート

 

それは、芸術

 

消費

 

それは、使って無くすこと

 

お久しぶりです。たけうちです。

演劇祭での公演が終わって、ブログ含め、表現活動を休憩しておりました。今記事を機に再開!

名前のない役者達B出演体験記(unitA)

さて、今回は、普段からお世話になっている、本山かおりさんが主宰する「織々」という団体の、創作撮影展示公演「彩々(いろいろ)」という公演、14時の回を鑑賞して来ました。

 

(てかさ、渋谷ってなんであんなに迷路なの?)

演劇以外のパフォーマンスもあったので、今回は「鑑賞」した感想、というか観た上で思ったこと深めたこと、それらを綴っていきます。それではいきましょう。

*下北沢の珈琲館で3時間かけて言語化しました

消費社会に取り込まれたアート

アートとは何か

アートの定義をググってみると、「芸術」と出てきます。

 

定義調べたのに納得感ないですね。

 

語源からいきましょう。

 

アートの語源はラテン語の「ars」。

意味は「技術」です。

 

意味としてはかなり広いですね。

 

つまり、アートとは「人の手によって生み出されるすべてのもの」という意味らしい。

 

ちなみに、中世では神学と結びつき、実用性も併せ持っていましたが、18世紀の産業革命以降、“実用”は産業に取り込まれ、“美”という意味合いでのアートとなったそうです。

消費社会

続いて、「消費」とは、「使ってなくすこと」。

 

じゃあ、アートと消費はどう交わっているか?

 

というと、交わりすぎてる、うん。というか、取り込まれている。

 

一時的な娯楽。買われて終わるアート。スクロールで流されていくSNS投稿、深められずに消えていく作品たち。嗚呼悲しき。

 

気づけば、私たちの暮らしの中でも、感動さえ「コンテンツ」として流通し、アートは、心の糧である前に、経済の燃料になってしまった。

 

アートが消費社会、資本主義に取り込まれている現代社会で、我々は生きているということです。

消費されるアーティストと作品たち

アートは人々の癒しとなる一方で、市場の論理に巻き込まれ、消費される存在になっています。

 

作品は観たら終わり。

アートに携わる人々は報われにくい。

 

そんな社会構造の中で、あがける余地はあるのかい?ないのかい?どっちなんだい?という疑問が湧きますね。えぇ

 

あると思います

 

というのも、アートは受け手があってこそ初めて完成するものという特性があります。

 

それから全体としてアートの『受け手』の割合の方が多いと仮定すると、受け手の意識が変われば、世界も変わるのでは、と。

 

わたくしとしては、良い受け手こそがこの問題を和らげる一案なるのでは、と。

 

一瞬の感動で満足して、「いいね」で終わらせてしまう。

 

作品の余韻を味わう、考える、他者と語る――

 

そうした“内省や共有”を省いてしまう私たち。

 

今回の、「観る」ことを問う、そんな展示公演『彩々』は、アートが“消費されるもの”になってしまった現代社会へ、業界へ、人々へ、一石を投じるのものに感じました。

公演の感想 14:00の回

美術史の教養も乏しいのに、なかなかとても真面目に書いてしまいました。ご愛嬌ということで。

 

折角なので、それぞれのパフォーマンスへの感想を。ここはポップに綴ります。んへへ。

本山かおり(演劇)

1年近くのお付き合いなのに、生で公演の形で演技を拝見するのは初めてでした。

 

上記で書いたような、観る側への問いかけを、ロボット視点でモノローグ。

写真を観て何を感じるか、「ロボットだから、あたすは分からん」と。人だからこそ想うことができるのだと。

 

というか、すごいロボットだった。

 

目線の使い方とか、動きのカクカク感とか。

 

自分がとんでもなくゲラであるために、そういった役は途中で吹き出してしまいそうになるので、最後までロボット顔で役貫けるのすごいなぁと。

 

18時半の回と併せて見ると、ニコイチになっているそう。伏線回収っ

 

ワークショップいれちゃってて行けないので、誰か教えて下さい。(本人に聞きなさい)

 

「「観る」を問う」に関しては、後半で書きます。

即興コント(シル)

コメディの文脈での、インプロ(即興劇)のチームとして有名な『シル』さんによるパフォーマンス。

写真からインスピレーションを受けて、即興でコントを作るものでした。

ずっと笑いっぱなしだったんですが、1本目の猫と玩具箱の写真からインスパイアされたコントは、猫あるあるが散りばめられてて、共感しすぎて首もげそうだった。にゃー。

2人芝居(高野蒼生・阪口はるか)

おもちゃの世界。

捨てられたが、選ばれ者のおもちゃの2人が、同じく捨てられたおもちゃの魂が漂う世界でお仕事してるお話。

 

空虚さ、むなしさ、儚さ、切なさ、孤独。

捨てられ朽ちていくおもちゃ達。2人のおもちゃの心の葛藤や苦しさを感じ、そして命を感じた作品でした。

アルパ演奏(aoi )

パラグアイ(南米の国)のハープ、アルパでの演奏。

 

ハープの生演奏の拝聴は人生初でした。

 

ハープってこうやって演奏するんだすげえ。という発見から始まり、

クマのぬいぐるみの写真からインスピレーションを受けた演奏からは、懐かしさや、柔らかな音色にも関わらず子どもの活発さのようなものも感じました。心癒される時間をありがとうございました。

観るを問う〜作品を通して「人」と繋がる〜

儚さを味わう受け手の感性

演劇や展示のようなアートは、多くの場合、その場限りで消えていく。

 

儚いものです。

 

しかし、上演する作品が毎週変わる吉本新喜劇の、すっちーがたしか言っていました。

 

儚いからこその良さでもあると。

 

だからこそ、“儚さ”を味わうことこそ、受け手の持つべき姿勢なのかもしれません。

消費のアンチテーゼ「交流」

作品は儚いからこそ、消費にならないための努力が必要。

 

業界の改善、ビジネスモデルの改善など提供側の努力はもちろんですが、この記事では受け手の努力に焦点を当てます。

 

私は「消費」の対極には「交流」があると思います。

 

今回の公演では、写真を通して、写真からインスパイアされた表現を通して、俳優、カメラマン、奏者、観客同士の“その場の交流”を生んでいました。

 

同じ1日限りの作品でも、作品を通して自分と対話する、そして人と対話する。

 

感じたことを見つめて言語化して、人と繋がり、共鳴する。

 

交流が生まれたとき、アートは人々の心に残り続け、深まり続け、“消費”ではなくなるのではないでしょうか。

 

そして“交流”は、人々にとって日常の瑞々しさを生むと思うのです。

まとめ

演劇も文章も、観客や読者があってこそ成り立つもの。

 

自分が教養ある感性豊かな受け手かどうかは定かではありませんが、表現する側でもある私は、少なくとも「想い、表すこと」を忘れない受け手でありたい。

 

そしてどんなに資本の波に揺られても、“誰かと何かを感じあう”という小さな交流を、アートと呼び続けたい、と思います。

 

アートに関わる全ての人に、感謝とリスペクトと、愛を込めて、幸あれ。

 

以上です。

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