どうもですー、たけうちです。
なんやかんや記事更新できてますね、おめでとう(どこから目線)
さて、表題にあるとおり、今日はやや過激なことを書こうかなということで、最近思ったことをつらつら書いていきます。
(私、「つらつら」ってワード好きなんよな。ブログ名「つらつら」とか、劇団「ツラツラ」とかにしようかな将来的に(すみません21時、シラフなのに深夜テンションです))
特に、真面目に生きてきた人、性格は?長所は?って聞かれて「真面目」とか「粘い強い」って言っちゃう人、我慢強い人、繊細な人、今まで苦しめの努力をしてきた人対象に、考え方転換しませんか?って記事です。
読後に、少しでも生きるのが楽になっていれば幸いです。それではいきましょう。
美徳とされている「努力」

「努力」が大好きな日本人
「努力は報われる」「努力は裏切らない」
海外に住んだことがないのであれですが、日本では子どもの頃から100万回は聞かされている言葉だと思います。
真面目であること、コツコツ続けること、一度始めたことをやりきること。 それらは社会において“美徳”として称賛されてきました。
確かにかっこよさであり、強みであり、長所になりうる要素ですし、実際私もそれらを聞かれたときに、そうやって答えてきた節があります。
就活の時に、長所欄に『エレクトーンの練習を小学生時代毎日3時間やってました』っていうエピソードをつけて、「我慢強い」って書いてたことありますからね(笑)
「努力は素晴らしい」という言葉に疑問符を叩きつけたい
これを読んでいるあなたは、この「努力」とか「真面目さ」に対して、欠片でも違和感があるからだと思います。そうですよね、なんか世間が美徳とする努力って、自分の気持ちを抑えてつけている感があるんです。
私もエレクトーンは親に言われてイヤイヤでした。外で男子達とサッカーしてたかったもん。イナズマイレブン見てたかったもん。
努力という言葉には、どこか苦しさが付きまとう。 「頑張らないといけない」「しんどいけどやらなきゃ」 そんな“義務”や“我慢”を正当化する免罪符のようにも感じられるのですのよ。ほほっ。
タイトルにもあるとおりですが、あえて「努力」という言葉を廃絶することを提案してみたいと思います。 真面目な人ほど苦しんでしまう“呪い”を解くという意味で、生きるのをほんの少しでも楽にする考え方を下記していきたいと思います。
努力という言葉を廃絶しないか?

「未来のために今を犠牲にする」ことの違和感
「今は我慢して、未来のために頑張ろう」という言葉をよく聞きます。子どもに対しての「勉強しろ」とかもそうだし、大人になっても「お金を貯めろ」とか、そんなこんないろんな場面で聞きますよね。
まあでも問いかけたいのがこちら。
その未来って、いつ来るん?
目標を達成する日が来たとして、満足するんですか?って話です。
「ソウルフルワールド」という(ピクサーかな?)映画があります。
主人公のおじさんが、ジャズピアニストをずっと目指していていて、ずーっと芽が出ず、しがない音楽教師をしながら、そこまで楽しくない日常を過ごしていました。とあるとき、ジャズ界の有名人のおばはんに見初められ、実力を認められました。
初めてのライブ演奏のあと、興奮しながら主人公は、その有名人のおばはんに「明日はどうするんだい?」と聞く。すると、おばはんは「明日もここでライブだ」と。
そこで主人公は喜ぶのではなく、なんと落胆するのです。目標を、夢を叶えられたその先で幸福が待っていると思っていた。でも違った。今日からのその日常がずっと続いていくだけなんだと。
まあネタバレになるので詳細は省きますが、最終的に日々の小さな幸せを噛みしめることの大切さに気づいて映画は終わりです。
話は見えたかと思いますが、いつ訪れるのか分からない、ぼんやりとしたその日のために、何ヶ月も、何年も、今という時間を「頑張るため」だけに使っていませんか?という話です。
道を歩いていて聞こえる車の音、隣の部屋の誰かの笑い声、顔を上げた時の空の色。 そういう“雑音”こそ、今しか聞けない・感じられないもの。
未来の理想の自分のために、現在の自分を犠牲にする。 それはまるで、「今の自分は不完全である」と突きつけ続けるようなものです。
今この瞬間を生きること。 この雑音すら大事にできたとき、人生はふと豊かさを取り戻すのかもしれません。
「楽しい」という感覚が核ないと、ステップアップは苦行になる

同じような話をしますが、別の視点から。
目標に向かって努力する。 ステップアップするために頑張る。学校で教えられる「努力」は、目標が過剰に先行し、過程と感覚を無視した頑張りマシンです。
物理的に想像してみましょう。
階段があって、階段を上った先にプリンがあるよ、と言われて、階段を上ることに対して特に興味はないけど、階段を上がり続ける。最初はよくても、だんだんしんどくなっていく。この階段は、だんだんと一段が高くなったり、上るのに何かしらの工夫がいったりするようになるから。
たちまちもうやだってなります。
普通です。
でも、学校で教えられる努力ってこんな感じしませんか?ご褒美であるプリンに関しても「大人になったら役立つから」とか「やらないといけないから」とか、だいぶ曖昧なものだったりします。
「やらねばならない」気持ちだけ、ステップアップになんの楽しみを感じないと、それはただの苦行となり、自分を追い詰めていくことに他なりません。
「なんか面白い」「もうちょっと知りたい」「これ好きかも」
そんな“楽しい”という感覚が核にあるからこそ、前に進めるのです。これが理想的なステップアップだと最近感じます。
努力をあえて言い換えるとするならば、歯を食いしばることではなく、楽しさを深めていく行為なのかもしれません。
大谷翔平だって、多分ですが、野球を苦しいと感じたことはないと思います。野球をやって、「あ、楽しい」「もっと上手くなりたい」「あ、楽しい」を繰り返した究極系が、あのメジャーリーグでの活躍だと思います。(そりゃもちろん、練習での「しんどい」はあると思いますけどね)
但し「憧れるのは辞めましょう」なんて大谷先生は言いますが。目標が先行すること自体は悪いことではないと思います。未経験でもやってみて分かることもたくさんあるからです。
演技やったことないけど憧れて「声優になりたい」。実際やってみて、「あ、楽しい」だったら全然良いと思います。目標に固執して、それまでの過程が「目標達成のための作業」になった瞬間に苦行に変わる、というところが伝わっていればなと思います。
「楽しい」を感じる条件

じゃあ、「楽しいを感じる条件ってなに?」って話ですよね。「今なにかに取り組んでいるけど苦しい人」はもちろんですが、「そもそも打ち込めることがない」という人は、なにか新しいことを始めるときに意識してみてください。
私なりの「楽しいを感じる条件」はこれです。
フィードバックをもらえる環境
“Feedback is gift”という言葉があります。
良いところも悪いところも、自分では気づけないところを指摘してもらえる環境です。そして、できれば、その成長過程を見守ってくれるところ。
私が今楽しいと感じている「ボクシング」や「演劇」。
ジムでも、フォームやステップワークがおかしかったらその場で直してもらえるし、パンチのキレが良ければその場で褒めてもらえます。演劇でもワークショップ中、ワークショップ後に、「ここが良かった、次こうするともっと良くなるかも」とフィードバックを頂けて、技術向上に努めることができる。
ボクシングでは、ミットやサンドバッグに打つだけでなく、対人でもやってみたくなり現在トレーニング中ですし、演劇も「なんか論理的にちゃんと勉強したい」と思う様になり、自然なステップアップができています。
そして、過去を振り返っても、編入受験対策のために入った予備校で、先生から小論文のフィードバックをもらえていました。フィードバックをもらって、改善して、改善した分だけ分かりやすく点数があがって、気づいたら京大合格してました。
お気づきかもしれませんが、フィードバックをもらえる環境だと何がいいかと言うと、めちゃめちゃ自然にステップアップ、成長ができるということです。
これはまたなぜかというと、タケウチ的考察ですが、「真面目な人」は大体「素直さ」も持ち合わせているからだと思います。
だって、親、学校の先生が言ってること素直に聞いちゃったからこうなってるんだもん。私も心理カウンセリング行くまで、「我慢強い」は長所にしない方が生きやすいって気づかなかったからね?
話を戻しますが、真面目な人、フィードバックを貰える環境、いわゆるPDCAを回すという行為は相性がバッチグーな訳です。楽しいと感じやすく、気づいたら成長していて、さらなる高みを自然に目指してステップアップができるようになります。
*もちろん、フィードバックをもらう相手については、ご自身の相性の良い人を選べば良いと思います。フィードバックの内容や言い方次第では、真面目な人は重く受け止めすぎたり、繊細な人は傷つくことがあります。自分の段階、成長度合いによって響くものもあれば、響かないものもありますし、傷つくこともあれば糧になることもあります。自ら傷つきにいくことはありません。
「楽しく」ステップアップ

かく言うタケウチも真面目です。努力は美徳と思っていた張本人だし、努力しないと怠け者、世間の「努力しないひと」を見下していた時期もありました。
でもそれは自分自身に対してもそうだったんです。怠ける自分は嫌い、やりたくないことをやれない自分が嫌い。自分を追い立て、追い込み、苦しめていました。
自分に厳しく、律して、目標に向かって努力を続ける。しかも努力の結果、「それなりの結果」が出てしまうっていうところが一番厄介なところ。
でもこの「努力」は今を削る行為に他なりません。
「工夫する」「熱中する」「楽しむ」「夢中になる」これらの言葉には、前向きなエネルギーがあります。 自分を追い立てるより、自分を動かす言葉。
最初は怖いです。「楽しい」だけでいいのかと不安になります。自分を苦しめていないと、甘いんじゃないか?と疑ってしまいます。
でもそんなことはない。自分の感覚こそが正義です。真面目な自分も肯定しつつ、「やりたい」という自分の感覚を信じる勇気を持って下さい。
真面目な人こそ、自分の“今”に優しく

「未来の自分のために、今を差し出す」 でもそれがすべてじゃない。
今、この瞬間にある喜び。 目の前の人と交わす笑顔。 ふと感じた違和感や、心が動いた瞬間。私も、そういうかけがえのない一瞬にちゃんと立ち止まれる人でいたいと思います。
(*「ソウルフルワールド」を観ろ)
未来を良くする一番の近道は、今の自分を大切にすること。厳しくすることではない。「楽しい」という感覚と「今を感じること」、それを忘れずにキャッチしていたいと私も思いますし、これを読んでいる真面目なあなたにも届けばなと思います。
さあ「努力」という言葉を廃絶しないか?
まとめ
まとめると、
5,000字の記事書いた自分に優しくしたいんで、10時間寝ます。おやすみ。
以上です。
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